鎌倉城の場所についてお話しようと思います。
- 鎌倉城はどこの場所なのか?
- 鎌倉城はどうしてその場所になったのか?
という内容です。
そして、鎌倉城で政治を行った(鎌倉幕府)源頼朝は、武士たちに必要とされた人物でした。
頼朝は、武士たちの不満を解消していったのです。
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鎌倉城の場所はどこ?
12世紀終盤、源頼朝は鎌倉に幕府を開きました。
この時の鎌倉城の場所は、いったいどこにあるのでしょうか?
「鎌倉城、と言っても天守閣なんてないし・・・。」
じつは、鎌倉城の場所は、鎌倉という都市そのものを指します。
鎌倉という土地自体が、自然の地形が生み出した天然の城だったのです。
平安時代には、周りが丘陵で囲まれた土地が敵からの攻撃に耐えやすいという考えが主流でした。
そのことから判断すると、鎌倉城の場所はパーフェクト。
鎌倉の周りには、水堀や城壁がもともと備わっていたのですから。
鎌倉城の場所の構成
鎌倉城の場所は、南が海。
そして他の3方向は山で囲まれていました。
海=水堀
山=城壁
の役割を果たしてくれます。
また鎌倉を囲む山の標高は、100m位までです。
それでも、その山は敵の侵入を防ぐのに十分役立ちました。
山に加えて谷もしっかりあるので、敵は鎌倉に進軍しにくいのです。
さらに敵が攻めてきても、山を越えるための街道で押さえてしまえば更に良し。
この鎌倉城に入るための街道には、敵の動きを止めやすい場所がありました。
それは切通し(きりどおし)と呼ばれるポイントです。
鎌倉城を守る切通し(きりどおし)
山に囲まれた鎌倉城に行くには、山を越えて進まなければいけませんね。
山越えは大変なので、道路を整備しなければなりません。
トンネルがあればベストです。
しかし、鎌倉時代の技術で現代のように「トンネルを作れ」と言ってもムリな話です。
人々は山の難所を掘削し(切り崩し)、通行しやすい道を作ったのです。
この道は切通しと呼ばれています。
屋根のないトンネルのようなものですね。
この切通しを作った場所は、もともと通行の難所です。
そのため、鎌倉城に敵が攻めにくくすることも可能なんですね。
◆狭い道幅を作る
道幅が狭く、1人ですり抜けるのがやっとの場所を作っておきます。
すると鎌倉城への敵の進行が遅れます。
馬も通れませんね。
◆置き石
道の真ん中に大きな石(岩)を設置します。
これも敵の進軍を遅くすることを可能にします。
◆切通しの上からの攻撃
切通しの上に平地を作っておき、敵を上から攻撃します。
という方法で、敵の鎌倉城への侵入を防ぐのです。
7つの切通し
鎌倉城への敵の進行は、7つの切通しが阻んでいました。
これは
鎌倉城の場所は7つの切通しの内側
ということです。
鶴岡八幡宮を囲む感じで右回りに
- 極楽寺坂切通し
- 大仏坂切通し
- 化粧坂切通し
- 亀ヶ谷坂切通し
- 巨福呂坂切通し
- 朝比奈切通し
- 名越坂切通し
という防御施設ともいうべき切通しがあったのです。
・・・・・・・
◆化粧坂切通し
この切通しのなかでも特に重要だったのが、化粧坂切通し(けわいざかきりどおし)です。
鎌倉城内の中心部に直結する交通の要所です。
軍事的に突破されてはいけない切り落としのため、準備は万端でした。
堀切と呼ばれる、街道を寸断する大きなくぼみを作り、敵が一気に攻め込めないようにしています。
1333年に新田義貞が鎌倉城を60万騎で攻めた戦いがありました。
そのうち50万騎をこの化粧坂切通しに向けたのですが、突破されませんでした。
※ちなみに、このとき鎌倉城は他のルートから攻め込まれ、陥落しています。時は室町時代目前、武士の戦い方も進化していたのです。
市場や商店が立ち並んでいたとも言われる化粧坂切通し。
「都会の鎌倉城に入る前に、化粧しておいてね。」
そんな会話があったのかもしれません。
鎌倉城はどうしてその場所になったの?
「鎌倉城」という場所で頼朝が幕府を開いた理由は、
地形に恵まれていた
ということ以外にもありました。
それは鎌倉がもともと源氏と関係の深い土地だったということです。
源氏と鎌倉の縁ができたのは平安時代。
鎌倉幕府が開かれたとされる1190年頃からさかのぼること約160年。
1028年、東国で横柄な態度をとっていた平忠常(たいらのただつね)が反乱を起こします。
朝廷は追討軍を出兵しますが2年も反乱を鎮めることができませんでした。
そこで征伐に起用されたのが源氏でした。
源頼信(みなもと の よりのぶ)が反乱軍をあっさり平定。
長期戦で朝廷軍と戦っていた平忠常は疲れ切っていたようです。
また、このころに飢饉があった影響で反乱軍の戦力が低下していたとも言われています。
この後、頼信の子や孫は東国の鎌倉に住み、源氏の東国の拠点としているのです。
頼朝の父や兄も鎌倉に住んでいました。
この縁があったので、頼朝は「鎌倉城」を幕府の中心とするのです。
鎌倉城で武士の不満を解消!
源頼朝は鎌倉城で政治を行います。
その本拠地としたのは、大倉御所と呼ばれる頼朝の邸宅です。
鎌倉城跡とも言えるこの大倉御所跡は、鶴岡八幡宮に近い場所にあります。
鎌倉城は、武士たちの不満の解消をするための政治の場所でもありました。
京都の貴族支配で、武士たちは有無を言わせずに使われてきました。
土地の役人に逆らうことは出来ません。
役人からは税を搾り取られ、土地も取り上げられることもありました。
ところが頼朝は、武士たちの働きにしっかりと恩賞を与えます。
働きに応じて領地を与えるのです。
また、武士同士の土地争いの紛争も、平等な視点から解決。
武士といえども自分で畑を耕していた時代です。
武士としては、自分たちの生活を安心できるものにしてくれるのですから頼朝についていきます。
また鎌倉が朝廷のあった京都から遠くはなれていました。
そのため鎌倉幕府の政治は比較的自由に行うことができました。
鎌倉城という場所は、武士たちの不満を解消しやすい環境があったのです。